匠の描写〜蝉しぐれのこと〜

藤沢周平 著 「蝉しぐれ」 を読んだ。


良い小説には2種類あると思う。
ひとつは読者がその世界にすっと入ることができるもの。
もうひとつは、その世界が読者の中にすっと入ってくるものだと思う。


この作品は後者の最たるものかもしれない。
時代小説なのに、記憶の奥の方に入ってくるような感覚はすごい。
そうさせるのは、巧みな自然描写のせいだろう。
季節の移り変わりや町の雰囲気、そして人々の息づかい、ついには匂いまで感じ取れる。
流れるような文章が心地よい。


友情や恋を自然に描いているかと思えば、剣術のシーンでは緊張感に満ちあふれる。
ページをめくるごとに主人公が少しずつ成長していくのがわかる。
すべてが丁寧にゆっくりと描かれているのだ。


暑い夏の終わり、木陰の下。
上を見ると木漏れ日の間から陽の光が溢れている。
聞こえるのは過ぎる夏を惜しむような蝉の鳴き声。
その名指しがたい切なさ。
最後のページを読み終えたとき、その切ないけれど清々しい気持ちが残るはずだ。
時代小説が苦手な人にも勧めたい作品である。


蝉しぐれ (文春文庫)

蝉しぐれ (文春文庫)